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間違っていたのは私の心

偉そうに人前で仏法を説く身にありながら、お恥ずかしい限りです。

最近、大変反省すべきことがありました。ある方に自分勝手な思いをぶつけてしまったのです。その人のためを思ってのことだと当時は信じていましたが、後々振り返ると、それは私のエゴ、欲に過ぎませんでした。結局、私がすべて間違っていたのです。

感謝の気持ちというものを、私は履き違えていたのだと気づきました。本当は、周りに生かされている。自分一人で生きているのではないことに気づかなければならなかった。僧侶としても、人間としても恥ずべきことです。

そんなとき、ふと昔の出来事を思い出しました。父の七回忌でのことです。

父も僧侶でしたので、近隣のお坊さん方が七人、八人とお参りに来てくださいました。中心でお経をお唱えくださったのは、当時すでに八十代の老僧さんでした。私はその頃、高野山高校に通っており、お経について多少なりとも学んでいました。法要の中盤、その老僧さんがふと一か所、お経を間違えられたのです。

その瞬間の私は――「あっ、間違えた!あーあ間違えた」と、心の中で思っていました。若さゆえの天邪鬼さと、どこか意地悪な気持ちが混ざっていたのだと思います。今振り返れば、大先輩に対してあまりに失礼で、恥ずかしい心持ちです。

法要が終わり、家族だけの時間になったときのこと。祖母――父の母が「ありがたい、ありがたい」と繰り返し喜んでいました。そこで私は、子どもっぽいひねくれと意地悪心から、水を差すように口にしてしまいました。

私「でも、老僧さん、お経間違えてはったで」

 すると祖母は間髪入れずに言いました。

祖母「いやいや、間違っててもありがたいんよ」

その言葉を聞いた瞬間、私は急に胸の奥が締めつけられるような恥ずかしさに襲われ、直感的に「あ、間違っていたのは自分のほうだ」とわかりました。

ありがたい出来事があるからありがたいのではなく、特別な出来事が起こるから感謝できるのでもない。そこに「感謝する心」があるからこそ、すべてがありがたく映るのだ――祖母の言葉は、そのことを私に教えてくれました。

思えば、お経というのは本来「間違ってはならない」ものです。昔から「経は読むべし」と言われ、たとえ暗記していても必ず経本を手にして読む。それはお釈迦様の教えが誤って伝わらぬようにとの戒めです。だから当時の私は、「間違っていてもありがたい」という祖母の言葉が不思議でなりませんでした。

しかしそこには、教えの正しさを超えた「信仰の心」がありました。自分の息子のために、これほど多くのお坊さんが集まり、お経をあげてくれる。その事実そのものが、祖母にとって何よりありがたいことだったのです。

そして今の私にとっても大切な学びがあります。
「感謝」の「謝(しゃ)」とは「捨てる」の「捨(しゃ)」に通じます。仏教には「四無量心」という教えがあります。「慈」「悲」「喜」「捨」の四つの心です。いずれ詳しくお話ししたいと思いますが、それはまた別の機会に譲ります。

自分のエゴや欲というものを捨ててこそ、はじめて本当の感謝が生まれるのだと気づかされました。

最後までお読み頂きありがとうございました。